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2009年08月18日

北千島の戦い:日本人の知らなかった戦後の戦争があった

又ひとつ、我々日本人が知らなかった戦争体験を見つけました。
皆さんは、すでに知っていたかもしれませんね。(苦笑)

私はこれを青山繁晴氏の著作「王道の日本 覇道の中国 火動の米国」
で知りました。

王道の日本、覇道の中国、火道の米国


王道の日本、覇道の中国、火道の米国


これによると、ソ連の「火事場泥棒」は、樺太や北方4島だけでは
なく、千島列島の最北端の占守島(しゅむしゅ島)でも行なわれた
となっています。
しかも、この戦闘は、後の領土問題に重大な影響及ぼした激烈な
戦いであったようです。

で、ググッて見ると、出るわ出るわ。(苦笑)

ここに、経験談をまとめたHPを見つけたのです。


北千島占守島の戦い(日本軍最後の戦い)

 終戦を迎えた8月15日から三日経った8月18日の早暁午前1時頃に、終戦による武装解除の準備を進めていた占守島の日本軍に対し、ソ連軍が突如、猛烈な砲撃の下に奇襲上陸を開始し、攻撃を仕掛けてきたのでした。

やむなく日本軍は解除準備を始めていた武装を整え直し、自衛戦闘を行ったのです。戦闘は激烈を極め、日本軍の死傷者約600名、ソ連軍の死傷者約3,000名におよび、日本軍が有利な状況で、上陸部隊を殲滅する体制でしたが、ポツダム宣言受諾後の戦いであり、自衛を目的とした戦闘であったため、上級部隊からの命令で、8月21日に戦闘が終結した、日本軍最後の戦です。

戦いの概要及び意義

 日本国は1945年(昭和20年)8月15日の天皇の詔勅により、すべての戦争は終わったと思われていますが、事実はそうではなかったのです。日本の固有領土の一番北の端であった、北千島の占守島(シュムシュ島)で戦争が行われていたのです。(図 千島列島 参照)
「シュムシュ島(占守島)」.gif


このような歴史は、学校では全く教えてくれません。
何故でしょうか?

外務省は、この千島の領土を「未確定」としているからです。
日本外交の弱腰を現す端的な例と言えるかもしれません。

青山氏は「領土を主張するべきだ」と言っています。

北方領土問題は、4島だけではないということでしょう。
ヤルタ会談で決めた事と言っても、これは、秘密会談であり
国際法上拘束力は無い。
従って、「領有権は無効」であるということのようです。

私は、この史実を知らなかったことに驚き、なおかつ、日本外交の
お粗末さにも改めて驚いた次第です。

こうなってくると、2島返還論など「論外の外」ということに
なってきますが、麻生総理は、この事実を知らないのでしょうか?

しかも、「南樺太」も、国際法上は「日本の領土」として
主張できると言うのです。

先日、麻生総理はユジノサハリンスクで、何かの式典に出たよう
ですが、ここは、日本の領土だったわけです。
とんだ、茶番ではありませんか。

歴史を教えられていないという事は、このように「とんでもないこと」
だということがよくわかります。

どうしてこういう歴史を子供たちに教えてくれないのでしょうか?
歯がゆくて仕様がありません。(苦笑)
この戦争で亡くなられた方々も、靖国神社に祀られているのでしょうか?

どなたか知っていたら、教えてください!

このHPをぜひ読んでください。きっと、驚くと思います。

北千島の戦い >>

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北千島占守島の戦い(日本軍最後の戦い)

 終戦を迎えた8月15日から三日経った8月18日の早暁午前1時頃に、終戦による武装解除の準備を進めていた占守島の日本軍に対し、ソ連軍が突如、猛烈な砲撃の下に奇襲上陸を開始し、攻撃を仕掛けてきたのでした。やむなく日本軍は解除準備を始めていた武装を整え直し、自衛戦闘を行ったのです。戦闘は激烈を極め、日本軍の死傷者約600名、ソ連軍の死傷者約3,000名におよび、日本軍が有利な状況で、上陸部隊を殲滅する体制でしたが、ポツダム宣言受諾後の戦いであり、自衛を目的とした戦闘であったため、上級部隊からの命令で、8月21日に戦闘が終結した、日本軍最後の戦です。

 この戦いのことを、ソ連政府機関紙イズベスチアは「占守島の戦いは、満州・朝鮮における戦闘よりもはるかに損害は甚大であった。八月十九日はソ連人民にとって悲しみの日である」と述べています。



戦いの概要及び意義

 日本国は1945年(昭和20年)8月15日の天皇の詔勅により、すべての戦争は終わったと思われていますが、事実はそうではなかったのです。日本の固有領土の一番北の端であった、北千島の占守島(シュムシュ島)で戦争が行われていたのです。(図・写真 千島列島 参照)

 なぜ、終戦三日後にソ連軍は強襲上陸進攻を強行したのでしょうか、終戦までこの地域では、陸上戦闘こそありませんでしたが、この頃の日本軍は本土防衛のための兵力転用が行われていました。この移動のための輸送船や舟艇等に対する砲爆撃、及び、千島列島に配備された日本軍に対する砲爆撃は米海軍によって行われ、終戦三
日前の8月12日には、配備変更のため温禰古丹島から占守島に漁船で移動中の日本軍の独立臼砲部隊が米艦隊の砲撃により全滅させられ、88名に上る戦死者を出しています。このように米軍の戦闘実績のある千島列島であり、また、いかにヤルタ会談での秘密協定で千島列島をソ連に引き渡すという米・英国の言質を得ていたとしても、カイロ宣言に違反する行為である日本固有領土の千島列島を米・英国がソ連に引き渡すということを、ソ連は米・英国が本当に実行するか否かは疑問を持っていたに違いありません。そこでソ連軍は、自ら戦闘により、即ち血と肉で千島を占領して、千島列島の占領を確実なものにしようとして、日本国がポツダム宣言を受諾した後の8月15日からあわただしく準備して、奇襲上陸をしてきたものと思われます。また、その後にソ連が米国に対して行った北海道の分割統治の要求を行ったという事実からみると、千島侵攻がうまく行けば一気に北海道まで侵攻しようとする意図があったものと思われます。この点から考えると、この占守島の戦いによりソ連軍の千島列島の占領は遅滞され、その間に米軍の北海道進駐が完了したので、ドイツや朝鮮半島に見るような北海道の米国・ソ連による分割統治は避けられたのであり、日本としては大きな意義のある戦いでした。

 しかしながら、この戦いの後、占守島で自衛戦闘を戦った日本軍の兵士のみならず、ソ連軍に対していかなる戦闘をもしていない、中千島や南千島に駐留していた兵士たちまでもすべて、シベリアを主体とするソ連領内に連行され、数年にわたり給養の悪い状態で強制労働に従事させられたのでした。そして、その1割の兵士は、栄養失調と疲労のために亡くなっているのです。

 戦争が終わったのに、その三日後に不本意ながら戦って戦死した方々、終戦後も不法に長期間にわたってシベリア等の極寒の僻地で強制労働に従事させられた方々、そしてその地で亡くなられた多くの方々、この様な方々がおいでになった事は日本人として決して忘れてはなりません。
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posted by 緑の保守派 風のヤマオヤジ at 19:02 | 長野 晴れ | Comment(0) | TrackBack(0) | 自立国家論(日本の道)
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